粉雪ブログ更新情報(※三つのブログごちゃまぜです)

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2016年6月13日月曜日

昨日、兄が亡くなりました

まだ47歳でした。
正直、こういうのを文章にのこすのはどうかなあと思わないでもないんですが・・(書いてるうちにこみあげてくるものがあるし)
でももともと私は文章を書くことで、精神の安定をはかる人間だし、父が亡くなったときもまとめたし・・・ということで、今回も経緯を書き留めておくことにします。

最初の知らせは5月後半、兄が突然入院することになったという母のメールでした。
病名は重症筋無力症。
国から難病指定をされている、1万人に1人くらいの割合でかかる珍しい病です。
遺伝子疾患なので、原因は未だに判然としないとか。
兄は一月くらい前から、喉の不調と疲労、食欲不振を訴えており、近所の耳鼻科などにかよって大手の病院を紹介されたそうです。

その結果、ひと月くらいかかってようやく病名が発覚。
その日のうちに緊急入院となったようです。

この病、筋肉を動かすアセチルコリン受容体の反物質が勝手に出来てしまい、それを阻害するというのが根本のところで、筋肉が徐々に動かなくなる(悪くすれば身体だけ要介護になる)ような自己免疫疾患なのですが。
ひとによって症状の重さ、出方はそれぞれ。
兄は目の下の筋肉が堕ちてきて黒づみ、喉が不調を起こすのが症状だったようです。



で、この病、得に重い症状のときをクリーゼとよばれ、呼吸筋に及び呼吸不全をおこし生命を脅かされるそうですが、兄はこの状態と判断されたようです。


ともあれ、医者は急ぎの治療が必要と判断し、抗アセチルコリン受容体を減らすため、首に管を通し血液を入れ替えをするような治療法を勧めたのですが。
その治療の途中に脈が弱まり、心肺停止。
入院と訊いた数日後に、いきなり「危篤」と訊き、びっくりした私は母と共に、兄のいる神奈川にかけつけました。

正直、心肺停止と訊いていたので、もう死に目にも会えないかと覚悟していたのですが。
ついたときには、とりあえず兄は自発呼吸に戻っていました。
ただし心臓が止まっていた時間は5、6分ほどで、脳に影響が出るかもしれないから、身体を冷やして本人を眠らせ、脳へのダメージを抑える治療をしているとのこと。
月曜日に意識を戻して、本来の病の治療を始めるつもりだと述べられて、ほっとした私は仕事もあるし・・・で日曜日には地元に帰り、母は念のため残りました。
しかし翌日からの母のメールは、悪い知らせばかりでした。

まずは脳に影響が出たのか痙攣が頻繁に出始め、それを抑えるために、医者は四苦八苦。
それが収まらない限りは、意識を戻して本来の治療が出来ないそう。
とりあえず、足と鼻から痙攣を抑える薬やその他を入れて、痙攣が収まるのをまっていたのですが、数日たってもなかなか収まらないし、意識も戻せない。
ただ、鼻からの薬を継続すると、今度は肺炎やらを誘発する可能性があるらしい。
ということで、今度は呼吸不全に陥らせないために、喉を開く手術を行ない、そちらから薬をいれるようにする・・とのことでした。
その結果、一時的にか声が出なくなると聞いて、私は結構ショックでしたが。
でも一度、呼吸不全で心肺停止におちいっているため、已むをえない処置だったのでしょう。

それでも母はあまり詳しく言いませんでしたが、こちらもやはり危険はある手術だったよう。

私はその日、びくびくしながら仕事をしていましたが、手術は成功。
ただし、今度は高熱が出ているとのことで、担当医がその日はいなく、原因がわからない状態だったようです。

ここまでも悪い知らせばかりでしたが、翌日の知らせはさらに最悪でした。
兄の容態が急変して呼びつけられたというものでした。
会社から帰って連絡があり、「命は取り留めたけれど、人工心臓に変えられた」とのこと。
しかも「出血が止まらず、身体がどんどん冷えていっているため、今夜が山である」と言われたと。

母は兄とともに一晩中つきそうそうで、私は「結果だけはっきりしたら知らせて」と告げて、その日は一応眠りました。
この時点までは一応、まだ山をこえれば治る可能性はあるのかなあと思ってました。
(人工心臓をつければ、心臓移植をしない限りは、長く生きられないということをネットで調べて落ち込ましたが、でもせめてひと目意識を戻して、母に会わせてやりたいと思ったんですよね)
でも悪夢ばかり見て、ぼーっとしてばかりいました。

翌日、電話で母と話すと兄は小康状態が続いているが、もうかなり弱っている上に、本当に最後の手段である人口の心臓にまで変えたため、「次に心臓が止まったときにはもう延命のための蘇生はしない」と医者に言われたと告げられました。
ので、その日のうちに私も再び神奈川へ。

しかし行ってみると、症状は横ばいに安定しているとのことで、「あれ?私今にも息絶えるかもと思っていたけど、勘違いだった?」と思ったのですが。
とりあえず、前日兄と母は病院の待合室でずっと待っていて疲れ果てていたため、二人とともに今日は帰ろうという話になり、家に帰りました。無論何かあったら、すぐに病院にかけつけるということで。

こういう危篤状態のときに、息絶えるまで何日も伸びることがあるという話を掲示板なんかで結構みていた私は、兄の生前にもう一度だけあえれば、後はお通夜のときに来ようと決めてました。
非情に思えますが、仕事もあり、何日もは休めないので。
で、次の日の朝、兄をもうひと目見て最後のお別れをしたら帰ろうと、そのまま荷物をのせて、母と長兄と共に病院にいったのですが。

病院についてトイレに寄った途端に、兄が再び心肺停止したとの知らせ。
慌てて病室に駆け付けると、何故かまた心臓が動いてました(笑←笑いごとじゃないけどね)
なんでも先に駆け付けた長兄が部屋に入ると、それまで5分ほどまったく動かなくなっていた兄の心臓が、再び突然動きだしたんだとか。
奇跡のような話、こういうのってやっぱりあるんだなあと家族の絆を感じて少し感動しましたが、母は「もう、これ以上頑張らなくて良いのに・・・可哀想に」と泣いてました。

確かに、人工呼吸器やら人口心臓やらをつけられ、身体じゅうに管を刺されてやっと生きてる兄の姿はひどく可哀想で、母は「もう楽にしてあげたい」とかなり前から思っていたよう。
でも当然というか、人口呼吸器やら輸血やらを止めれば、その瞬間、兄は死ぬわけで。
ずっと一緒に付き添っていた長兄の気持ちを思うと、言い出せなかったよう。

結局私はその日帰るのを止めて、そのまま待合室で待っていました。
蘇った拍動はやはりというか徐々に弱まっており、もう長くないだろうとわかっていたためです。

その後、1時間ほどして、兄の脈拍が完全にとらえられなくなり、死亡が言い渡されました。
結局心肺停止してから、一度も本人の意識を戻すことができないまま、亡くなりました。

うちの兄弟は、正直みんなさばさばしていて、実家で一年に数度あったときにたまに会話するくらい。別に仲が悪くはないけど、互いの家に泊まりあうなどの、がっつり交流がある兄弟ではないですが。
でもやっぱりもう会えないと思うと寂しくて、少し泣きました。

ただ、父を3年ほど前に失くしているので、ある意味、皆「慣れていた」んですよね。
今回は父のように、突然死んだわけではなく、闘病期間が2週間以上はあり、みんないい加減覚悟はしていたので。
ので、兄が亡くなったその日に、色々今後はどうするかを冷静に話し合い、会話をして食事が出来る程度には元気でした。
というより、多分みんな肩の荷が下りてほっとしたんでしょう。

ここ二週間ほど、毎日いつ兄が死ぬかと、ハラハラしどうしだったので。
私も正直ほっとしました。
ここ二週間は、毎日母から二度ほどくるメールに恐怖を覚えて、半ばメール恐怖症になりかけていたので(危ないかもとか危険かもとか書かれても、仕事はしなきゃならんし・・・でも本当に危篤だったら駆け付けなきゃならんからメールをみないわけにはいかないし。上の空でも仕事をしなきゃならんこっちを気遣って、もうちょっとオブラートに包むか、本当に緊急時以外は知らせるのをやめてくれれば良いのに。まあうちの母は自分の気持ちで手いっぱいで、その手の気遣いがまるで出来ない人なので、いうだけ無駄でしょうが)

ただ、兄が亡くなったあと、担当医から死因の説明ではなく、病理解剖の申し入れがあったのには驚きました。

兄の死因は、重症無筋力症を発端とする、呼吸不全やら肺の病だったようですが、なかなかない病の上、進行がかなり早かったため、原因を詳しく調べたかったようです。
例えばもともと持っている疾患との因果関係とかをね。

ただ、兄は喉や胸を切りさかれて、死後すら止めても止めても出血するくらい、ボロボロだったので。
「死んでからまで痛い想いはさせたくない」と私と母は反対。
長兄は私たち二人の意思に沿った形になり、解剖は断りました。

現在は木曜日に行われる通夜を待って、色々な雑事を片づけている最中です。
神奈川は人数に対して火葬場の数が少ないようで、名古屋のように即日お通夜、お葬式とはいかないようです。
最短で木曜日…と言われたときは、正直驚きました(日曜日の午前に亡くなったのに)

ただ、おかげで地元に一度戻る余裕も出来、少し今回の経緯を思い返すくらいは出来ています。
父の死からそれほど年数が経っていないため、どう動いて何をすれば良いか、ある程度はわかっているしね。

あー、やっぱりまとめていたらまた泣けてきた。

ただ、父も向こうにいることだし、私にしてみれば、少し長い別居みたいなものだと思っています。
いずれは私も、向こうにいくのだしね。